赤膚山元窯の由来
赤膚焼は、天正年間大和郡山城主 豊臣秀長が、尾張常滑の陶工 与九郎を招いて開窯させたのが始まりとされています。小堀遠州や野々村仁清が、赤膚 の地を訪れ指導にあたったといわれています。一説に 赤膚山は、神武紀にも記されています。また、「新続古今和歌集」に赤膚山を詠んだ二首があります。
「もみぢする赤膚山を秋ゆけば したてるばかも錦おりつつ」
「衣だに二つありせばあかばだの 山にひとつはかさましものを」
現在の赤膚山元窯(古瀬堯三、中の窯・治兵衛)は、天明のころ(1781〜)京都から赤膚山麓五条山に入山した当窯の祖である治兵衛が茶人としても高名な大和郡山城主・柳澤保光のこと堯三の意向をうけて赤膚焼を再興したのが始まりです。
赤膚山は、藩政時代には、郡山藩御林山として保護されました。当窯が所蔵しております、郡山藩からの拝領の品の中には、「赤ハタ」の窯印や、堯山侯直筆の
「聞いてこそ 心すむらめ この土瓶 巌の松風 谷の水音」
と一首を添えた土瓶の絵の軸などがあります。その後、赤膚三窯と呼ばれる時代を迎え、当窯を挟み東(岩蔵)、西(惣兵衛)の二窯が分立しました。近年まで当窯が「中の窯」と呼ばれていたのは、そのためであります。幕末に郡山に現れた奥田木白は、中の窯を用いて奈良絵茶碗など数々の名作を残しました。一方この頃田内梅軒の「陶器考」が出され、小堀遠州七窯の一つとして紹介されました。
赤膚三窯の名を誇ったのも明治二十年代で終わりを告げ半世紀後の昭和初頭には「中の窯」を残すのみとなりました。
昭和十三年、元祖治兵衛窯を支持して下さった当時の奈良帝室博物館久保田館長、春日大社水谷川宮司を代表とする、多くの方々が赤膚山元窯後援会を発足し、当窯の正統を意味する「赤膚山元窯」と記された記念碑を建立して頂きました。これを機に「赤膚山元窯」を用いるようになりました。
赤膚山元窯の伝統は、柳澤堯山侯の「堯」の字にちなみ「堯三」を名乗った代々の治兵衛の努力で守られ現在に継承されています。八代に渡る本来の伝統工芸赤膚の真価を古典と現代の豊かな調和と用途の美を見出す事が与えられた使命と思い努力しています。
奈良絵の由来
奈良絵は、古くから赤膚独自の意匠として多くの茶人等の間で愛用されてきました。その由来については、諸説がありますが、大和郡山城主の家老 里恭により因果経の教えを絵で説明したものを赤膚の器等に合うように図案化されたもので源流は、東大寺大仏殿の銅座の蓮弁図にあるといわれています。現在では宗教的な意味のみでなく広く愛用されています。
登録有形文化財
国の登録有形文化財に、陳列場及び旧作業場、大型登り窯、中型登り窯の三件が登録されました。当窯には江戸後期(大型)、昭和初期(中型)、昭和後期(小型)の三基の登り窯が陳列上及び旧作業場の後方に並んでいます。近代化により、登り窯が、いかに小型化した、歴史的変遷を見ることが出来、全窯使用可能な状態であることが、貴重な資料であると評価されました。
また、陳列場及び旧作業場二階には、明治後期の西洋建築のトラス構造が用いられており、古材も組み合わせた興味深いものとなっており、登り窯と一体となって使用され焼物生産を構成している施設として重要と評価されました。
・ご理解とお願い・
赤膚焼元窯・古瀬堯三は別頁の様な由緒ある登り窯で器を焼いております。その際火の回りや窯の条件で同じ形の器でもまったく違った焼加減や発色になり、窯を開けるまで出来栄えが解りません。下記の写真は同じ窯で、同じ土で、同じ様に焼いてもこれほど違った色彩が現れます。特にセット物では色合わせをしても多少の色違いが生じ、掲載写真と現物が大きく異なる場合があります。
そこで奈良物語では掲載写真と商品が異なる場合はご注文後に改めて写真で確認をしていただいてからの発送となります。また、窯焼のタイミングがずれる場合には相当なお時間を頂く可能性がありますことを、あらかじめご理解を賜るようお願い申し上げます。
同じ条件で焼いてもこのような色違いが必ずおこります